『ポセイドン』考察
2006 / 06 / 02 ( Fri )
ポセイドン』を911と『宇宙戦争』から読み解いてみる(両映画、および関連作品の結末等に触れている箇所があります)。ふつうの感想はこちら

911と『宇宙戦争』の不安感
ポセイドン』を911以降の映画だと感じたのは役に関するに関するニュース見たときだった。元市長、元消防士、ゲイの老人、ギャンブラー。72年度版の牧師と刑事のように社会的地位は高くなく、有名な市長と言っても現職ではない。そこからは911以降の映画には80年代のスタローン、シュワルツェネッガーのような強いヒーローはいらないと感じられると同時に、消防士というアメリカの民衆のヒーローを配役したと言うことは、そういった人こそが真のヒーローなのだという意味を持たせていると解釈した。

スティーブン・スピルバーグの『宇宙戦争(2005)』も911を強く意識した映画である。前触れこそあるものの宇宙人の攻撃は突然かつ強力で、ニューヨークの人にとってもそう感じたのだろう。トム・クルーズ演じる主人公のレイは科学者でも、マスコミ関係者でもなく、もちろん政治家でもない。映画はあくまでも巻き込まれた一般人の視点で描かれ状況は最初と最後のモーガン・フリーマンのナレーションで少し説明されるだけで、観客も主人公たちの感じる不安や恐怖を感じながら映画を観ることになる。主人公の視点しかないので途中でいなくなった長男の行方は最後まで語られず、それにより観る側の不安感が増す(ここは『ポセイドン・アドベンチャー』の原作と似ている)。

ところでこの映画では『ポセイドン・アドベンチャー』や原作のように他の遭難者に遭遇していない。それは転覆と爆発によって、あのパーティー以外は全滅したことを示唆している。
ポセイドン』の方法論
ポセイドン』では『宇宙戦争』からさらに進んだ方法論が取られている。ウォルフガング・ペーターゼン監督は言う「72年度版はは娯楽映画だったが、今作は現代のメタファーなんだ」。ローゼン夫人やスコット牧師の最期を名場面だと思っている多くの人はこの発言に怒るだろう。その一方であの惨事に居合わせたら思い出話や口喧嘩をしている暇もなくもっと緊迫感があるものだという監督の考えにも一理ある。

そして『ポセイドン』では72年度版の字幕による説明や『宇宙戦争』におけるナレーションさえも省いてしまった。大波の原因が地震によるものなのか、パンフレットにある突然に発生するローグ・ウェーブなのかも分からない。それによって劇中の人物たちだけでなく観客の不安も煽ることになる。とは言え観客は不安感が増すと言うよりは説明不足から置いてけぼりを食らったと感じるのである。その意味ではこの映画は失敗している。

目の前で起こっていることこそがドラマだ(各人物の分析)
人間ドラマの部分が足りないと言われがちな登場人物たちだがむしろ「広げた風呂敷をそのままにしている」点が問題である。なにか含みがありそうだが、それが現れてこない。とはいっても登場人物たちはそれぞれに背景を持っており、それがサバイバルに必要がないのなら話さなくてもよい。ところで、ここで出てくる人々は豪華客船の乗客にしては何か欠けている人間ばかりで、明確な目的を持って船に乗り込んだのは病気の弟に会いに行くエレナくらいである。

*ロバート・ラムジー:
元ニューヨーク市長、元と言うからには辞めた理由があるはずだ。スキャンダル、汚職、離婚問題、政治に飽きた等々。娘との会話から市長を辞めてから5年程度は経っているのではないかと考えられる。

*ディラン・ジョーンズ:
ラスヴェガスで稼ぐほどの腕はないギャンブラー。この映画で一番意味のない人物が彼ではないだろうか、淡々と課題をこなしてゆく男にどう思い入れをすればいいと言うのだろうか。

*リチャード・ネルソン:
当初から同性愛者という情報が入っていたが、彼との別れ話をするなど、その設定自体は残っているようである。自殺志願だったのが目の前の大波を見て、生を再認識し、エレナに対する保護者のような接し方も理解できる。

*エレナ:
パンフレットにあるようにこの人物が最も72年度版のキャラクターと比べやすい。ノニーのように恐怖で足が出ず、兄弟を思い、身近の人(マルコ)を失う。彼女がマルコと親しく、尚かつ直前死んだことは観客にしか分からない。それでも道を進むうちに彼はもう生きてはいないだろうと彼女には分かる。
だからこそ彼女は弟と再会するために前に進む。そして72年度版でスコット牧師を出したことによって
語られた宗教色は彼女のロザリオと言う形で登場する。十字架を粗末に扱った者は神が許さなかった。それが自分たちを助けるために使われたとしても。

*マギー・ジェイムズ:
シングル・マザーが大晦日に子供と豪華客船と言う設定にかなり無理がある。
*コナー・ジェイムズ:
72年度版のように船に詳しいとか、乗組員と親しいと言った描写はとくになく(パンフレットには船長が自分の椅子に座らせている写真あり)、守られるだけのお姫様キャラになっていて、むしろ足手まといである。原作では少年は行方不明になるが、さすがに映画でそれはない。

*船長:
彼が間抜けに見えるという人がいるようだが、船長があの場を締めていている。だからこそあの場から逃げようとするディランたちの行動の方が間抜けに見えてしまうのだ。船長は船の中では絶対権力者であり、ディランたちの行動を否定する彼はひどく冷たい人間に映ってしまう。

その前に、船長があそこにいてはだめだ。72年度版はパーサーが遭難者をまとめる役割を担当していた。パーサー程度の地位の人間のいうことより上に行く連中が理に適っているように見えたのだ。
そしてスコットと船付きの牧師との会話が前に進むことが出来る人間と守られることの運命と言うものを感じさせた。

やはり船長は操舵室にいて、この状況を嘆いてほしい。72年度版や原作では営利優先のために、
バラスト不足というのがあった。そのために船が転覆しやすい。後に出てくるバラスト・タンクが出てくるがどう繋がるのだろう。

ボール・ルームに留まれと言った船長の考えは間違いだったのか?船の構造には詳しくないので細かいことは分からないが、転覆した時点でほとんど助からないのではないだろうか。素早く救助隊が到着したとしてあそこからどう救い出されるのか知りたいところだ。

あの場面でリーダーがすべきことはパニックを防ぐことと意見をまとめること。それはラムジーたちを追い出すことで実現する。上に行くことの困難さも考え合わせた結果なら彼は間違ったことをしていない。どちらを選択しても助かる可能性はほとんどないのだから。彼に出来ることは奇跡を祈ることだけだ。最期のときに船長に寄り添う歌手のグロリア、二人の関係は深かったと見るのが自然だろう。

では、どうすれば良かったか?
まずは人数が多すぎる。群像劇と言っても6人くらいにとどめるべきではなかったか。あるいは人数はそのままで2家族にすると言う手もある。全員が家族である必要はない。親子と知り合いでいい。極限状態でいつもとは違う表情を見せればいい(原作には妻が夫に対して切れる場面がある)。

結論
以上、『ポセイドン』はパニック映画において新しい方法論を持ち込もうとしたがうまく機能しなかった作品である。もう少しうまい脚本家と組むべきだった。

修正版はこちら
22 : 05 : 10 | ポセイドン(・アドベンチャー) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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